長谷川等伯は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。彼の作品は「長谷川等伯展」や「ボストン美術館展」などの企画展を通じて、近年人気が高まってきています。
日本の絵画史に名を残すほどの活躍をした長谷川等伯とはどのような人物なのでしょうか。
そこでこの記事では、長谷川等伯の略歴を追うとともに、同時代の絵師・狩野永徳との関係や、等伯の代表作にも迫ってみましょう。
長谷川等伯の略歴について解説!
まずは、長谷川等伯の略歴を簡単にご紹介します。
長谷川等伯は1539年に能登国七尾の下級武士・奥村宗道の子として生まれ、幼い頃に染物業を営む長谷川宗清の養子に出されました。宗清は雪舟の弟子である等春の門弟であり、等伯も10代頃からこの養父や養祖父から手ほどきを受けています。長谷川家が日蓮宗を熱心に信仰していたことから、初期の等伯は日蓮宗に関する仏画や肖像画を描いています。
等伯はこの頃、等春から一字を取って「長谷川信春」と名乗っており、最初期の作品として現在確認されている絵は、等伯が26歳の時に描いたものであると言われています。
等伯は1571年に上洛し、狩野派の元で一時期学ぶものの、すぐに辞めました。その後は京都と堺とを往復し、狩野派の元で学んだ技術と千利休などの文化人との交流によって得た様々な絵画技術とを駆使し、等伯独自の作風を作り上げていきます。1589年には利休から大徳寺山門の壁画の制作を依頼されるとともに、大徳寺三玄院の襖に水墨画を描きます。
これを契機に等伯の名は飛躍的に知れ渡りました。この頃から「等伯」の号を使い始めていますが、またも等春から一字を取っていることから、等伯は自らのルーツが雪舟にあることを強く意識し、それを長谷川派の権威にもしたいと考えていたのではないでしょうか。
また、かつて師事した狩野派との対立が顕著になったのもこの時期で、仙洞御所対屋障壁画を描く機会を狩野永徳によって奪われています(対屋事件)。その後、祥雲寺(現在の智積院)の障壁画が秀吉に気に入られたことを契機に200石の知行を得て、長谷川派を狩野派と同等の地位にまで押し上げます。
ただし順風満帆の人生というわけではなく、祥雲寺障壁画作成途中に長谷川派の跡継ぎでもある息子・久蔵を亡くしています。等伯の代表作である『松林図屏風』が描かれたのもこの頃です。
長谷川派を確立した等伯はその安泰化を図るため、自らが雪舟の系統にあることを主張するとともに、大寺院からの依頼を受注・成功させることで実績を上げていきます。
転落事故による聞き手の怪我という不運を味わうものの、「法橋」「法眼」という高僧に与えられる位を授かるまでになります。1610年には徳川家康の招きを受けて江戸に赴くものの、江戸到着後するに死去しました。
狩野永徳は長谷川等伯に嫉妬していた!? 両者の関係とは!
略歴でも示したとおり、長谷川等伯と狩野永徳は仙洞御所対屋障壁画をめぐって対立を露わにしています。両者はなぜこのような関係になってしまったのでしょうか。
狩野永徳は狩野派の御曹司であり、若き頃から13代将軍足利義輝、近衛前久、織田信長、豊臣秀吉といった権力者や名家のもとで才能を惜しみなく発揮しています。いわばエリート絵師といったところでしょうか。永徳の作品は等伯の目にも当然とまり、等伯は永徳の「二十四孝図屏」に深い感銘を受け、狩野派に弟子入りしたと伝えられています。
しかし、この時の狩野派とは狩野家のみが名を成し、他のものは工房の従業員のような扱いであったため、等伯は狩野派を離脱しています。等伯は自らの才能に自信を持っており、なおかつ「長谷川等伯」として名を成したいという意識が強くあったのでしょう。
そんな長谷川等伯の才と顕示欲を誰よりも危険視したのが永徳でした。
案の定その心配は現実のものとなり、永徳の得意先である千利休は大徳寺山門の壁画制作という大事業を、まだ無名の等伯に依頼しました。このことに嫉妬した永徳は等伯を排除しようと画策し、壁画制作を妨害しています。
永徳の嫉妬はこれだけに留まらず、等伯に仙洞御所対屋障壁画の制作依頼があったことを知ると、狩野光信と勧修寺晴豊の協力を仰ぎ、発注そのものを取り消すよう政治工作を行っています。仙洞御所対屋の障壁画は最終的に狩野派に発注されました。永徳は等伯の仕事を奪ったということですね。
その後、永徳が過労で亡くなったため、等伯率いる「長谷川派」にも大きな仕事が舞い込むようになっていきました。等伯と永徳はその才能を認め合った存在でありながらも、互いに激しく嫉妬し合うライバル関係であったと言えるのではないでしょうか。特に永徳から等伯に向けられた嫉妬が顕著であり、それだけ等伯に才能があったことの裏返しと言えそうですね。
※参照:狩野永徳の作品の特徴や織田信長との関係とは。子孫もいる?
長谷川等伯の代表作とその共通点について!
最後に、長谷川等伯の代表作について見ていきましょう。
長谷川等伯の作品は、20代から晩年の70代にまで渡って多くのものが残っています。その中でも最高傑作と呼ばれるのが50代のときに描いた『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)であり、国宝にも指定されている名作でもあります。
この『松林図屏風』は等伯が息子・久蔵の死を嘆いて描いた作品で、誰かの依頼によって描かれたわけではないという点が特徴的です。「松林」というやまと絵のモチーフを中国の水墨画表現によって描き出すところに、やまと絵と水墨表現という二つの影響を独自の画風として昇華し完成させた等伯の才を感じられます。『松林図屏風』に表れる等伯の技法は狩野派などにはない作風であり、等伯は独自の絵画表現の境地を生み出したと言えるでしょう。『松林図屏風』は水墨画の最高傑作と呼ばれており、東京国立博物館に所蔵されています。
また、『松林図屏風』と同時期に描かれた祥雲寺(現在の智積院)の障壁画『楓図』も等伯の代表作として押さえておきたいところです。
息子・久蔵とともに製作にあたった「長谷川派」としての代表作でもあるこの絵は、豪華絢爛でありながらも細部に至るまで緻密な表現を用いており、狩野派を感嘆させたことでも知られています。『楓図壁貼付』もまた国宝に指定され、智積院の宝物館で見ることができます。
等伯の代表作はいずれも50代のときの作品であり、国宝に指定されているという点が共通していると言えるでしょう。
この記事のまとめ
長谷川等伯は若いころから絵の才能を磨き、上洛後は一時狩野派に所属しました。千利休の依頼によって大徳寺山門の壁画と大徳寺三玄院の襖に水墨画を描いたことをきっかけに、その名が知られるようになります。
狩野永徳とは今で言うところのライバル関係に当たり、等伯は一時期、永徳の嫉妬にあい、仙洞御所対屋の障壁画を描く仕事を横取りされるなどの不遇も味わいますが、祥雲寺障壁画作成を契機に大幅に飛躍し、その才能と実力をもってして晩年に至るまで活躍しました。
そんな長谷川等伯の代表作は『松林図屏風』と『楓図壁貼付』であり、いずれも50歳代の作品かつ国宝に指定されています。等伯は遅咲きの画家であると言えそうですね。生涯に渡って絵師として実直に活動し、「長谷川派」という系統を確立し、それを「土佐派」「狩野派」と同等の地位にまで押し上げたしたところに、等伯の偉大さを感じます。