織田信長や豊臣秀吉といった戦国武将が活躍した戦国時代から安土桃山時代にかけて起こった文化である南蛮文化とは、一体どのような文化だったのでしょうか。
また、南蛮文化によってヨーロッパから日本へ伝わったものや、南蛮文化がその後の日本の歴史に与えた影響についても気になりますね。
南蛮文化の基礎知識について、この記事ではご紹介しています。
南蛮文化とはどのような文化だったのか?
南蛮文化とは、戦国時代から安土桃山時代にかけて起こった文化で、この時期に盛んとなったヨーロッパとの貿易とキリスト教宣教師によるカトリック伝道に伴うヨーロッパの文化が日本に入ってきた文化の事です。
日本の歴史史上はじめてのヨーロッパや西洋人との接近によって生まれた文化とされ、日本人が初めて国際社会に触れた時期といえます。
また、この時期は世界史的には大航海時代といわれ、世界の一体化における歴史的事象の一部といわれます。コロンブスのアメリカ大陸発見もこの時期に起こった事象の1つです。
ただ、17世紀前半に実施された徳川幕府による鎖国政策によって外国人の訪日が制限された事もあって、あまり長くは続きませんでした。
南蛮文化の時期に日本に伝わったものとは?
では、この時代に日本に伝わったものには何があるのでしょうか。
南蛮文化の際に日本に伝わった物としては、油絵、銅版画、地球儀、機械時計、西洋楽器(オルガン、クラヴォ、ヴィオラ)などが挙げられます。
また、西洋の服(=洋服)がはじめて伝わったのもこの時期にあたります。
織田信長が西洋風の帽子やマントを愛好したのは有名ですね。
南蛮文化を語る上では、鉄砲とキリスト教の影響も見逃せません。1543年にはポルトガル人によって鉄砲が種子島に伝わり、その破壊力はこれまでの戦いを一変させました。特に織田信長は他の戦国大名に先駆けて火縄銃を取り入れて、天下統一に向けて邁進する一因となりました。
1549年に、キリスト教の布教の為に薩摩国を訪れたイエスズ会の宣教師フランシスコ・ザビエルは、周防国の大名・大内義隆に時計・眼鏡・火縄銃・葡萄酒・オルゴールを贈呈しています。
南蛮文化がその後の日本の歴史に与えた影響とは?
南蛮文化がその後の日本の歴史に与えた影響として最も大きなものは、何と言ってもキリスト教が挙げられるのではないでしょうか。日本に初めて来日した宣教師ザビエルをはじめとして多くの宣教師が来日にして布教活動を行い、永禄10年(1576年)、京都に教会堂として建てられた南蛮寺や安土には神学校を建てています。
キリスト教は最終的には徳川幕府により禁止されますが、その後も「隠れキリシタン」として密かに信仰され続け、明治時代によって信仰が許可されてから今に至るまで、多くの日本人がこの宗教を信仰しています。
さらに、神学・哲学・ラテン語・音楽・絵画、天文学や暦学、数学、地理学、航海術、医学なども日本に初めて伝わり、キリスト教をはじめとして様々なものが伝わり、現在にも影響を与えているものが多くあります。一神教の教義やヨーロッパにおける一夫一婦制及びそれに基づく倫理などが伝わったのもこの時期で、それまで多神教に馴染みが深かった日本人に大きく、強い衝撃を与えました。
軍事的な影響も見逃せません。先ほど挙げた火縄銃はもちろんのこと、「天守閣」といった城の形は、ヨーロッパの城をもとに作られたと言われています。
また、日本人が古代以来「インド・中国・日本」という世界観を抱いていたのですが、南蛮文化は当時のこの常識を打ち破りました。この事は、個人的に南蛮文化がその後の日本の歴史に与えた最も大きな影響ではなかったかと感じています。世界は中国とインドだけではないといった事を知った日本人の考え方は、この南蛮文化によって大きく変わったのではないでしょうか。
この記事のまとめ
南蛮文化は、現在まで続く大きな影響を与えましたが、江戸幕府が行った鎖国政策によって長くは続きませんでした。ただ、カルタやタバコ、パン、カステラ、カッパ、コンペイトウ、シャボン、ラシャ、ジュバン、メリヤスなど現在までも続く言葉として残っています。
南蛮文化は、それまで小さい世界観だった日本人に初めて本当の世界観を見せた文化といえ、現在の日本や日本人にも少なからず影響を与えた大きな文化だったと言えるでしょう。