日本史の勉強をしていると「有職故実」といった四文字熟語を見る事がありますが、これ、一体何なのかご存じですか?

朝廷や公家の洗礼の学問とか言うけど、一体何のことなのかイマイチピンと来ない…
このように思われている方は少なくないと思います。

そこでこの記事では、有職故実とはどのような学問なのかについて解説すると共に、鎌倉や室町などの中世、あるいは江戸時代の有職故実についても見ていきたいと思います。

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有職故実とはどのような学問なのか


そもそも「有職故実」とはどのような学問なのでしょうか。

有職故実の「有職」は博識であること、歴史、文学、朝廷の儀礼によく通じていることを意味し、「故実」は、同じく古(いにしえ)の事実、古例を意味します。
平安時代に朝廷の儀式典礼を行う場合、古の例に習い、その拠り所となる歴史的事実を故実といい、この故実に通じていることを有職といいました。

平安中期以降は、宮廷において官職の歴史を調べることが盛んになり、さらに日々、月ごと、季節ごとに行われる各儀式を作法に従って行うことが宮廷人の主な勤めとなり、有職故実は重要視されるようになりました。


その後、藤原基経の子で関白も務めた藤原忠平の執政期(10世紀前半)になると儀礼の基本形が確立しました。忠平は父基経の知識、兄時平の説、勅命や外記日記を研究し、合理的な儀礼体系を作り上げていきました。忠平は自身の日記「貞信公記」の中で朝廷儀礼や政務に関する記述を多く残しています。

彼の知識は口伝によって二人の子に受け継がれ、のちに兄実頼の小野宮流、弟師輔の九条流という宮廷儀礼を伝える流派が生まれました。この頃の有職故実の知識は世襲化されて次の世代に伝えられていったのが特徴です。

中世の有職故実鎌倉、室町期の有職故実について


では、その後の有職故実はどうなったのでしょうか。
中世すなわち鎌倉、室町時代の有職故実を見ていきましょう。

この時代以降の有職故実の研究は、より専門的なものに発展していきました。
順徳天皇は、儀式についてまとめた「禁秘抄」、後醍醐天皇は宮中で行われる行事の作法や衣装についてまとめた「建武年中行事」、一条兼良の『公事根源』、北畠親房の『職原抄』は官職制度について、源雅亮は服飾について『雅亮装束抄』などの有職故実書をそれぞれ著しました。


また、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が、有職故実に通じる武士を徴用したことで、京都の武官故実と関東在来の武士の慣習が合わさって、武家故実が体系化されていきます。その後幕府や主君の前における儀礼や作法などの故実は、室町期に入り、公家故実とも融合して小笠原流や伊勢流へと発展していきました。

南北朝時代、二条良基が著した「百寮訓要抄」は、室町幕府三代将軍義光が朝政参加のために必要な実用的な知識を伝授するために執筆されました。官職制度の故実・職掌などが解説されています。この書物は、『官職秘抄』・『職原鈔』と並んで中世を代表する官職制度の解説書とされています。

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江戸時代以降の有職故実について


江戸時代以降の有職故実については、民間でも有職故実の研究をする者が現れます。
それまで公家や武家の間で有職故実は世襲化され、学問として停滞がみられ、伝統にとらわれない独自の研究が広がりを見せ始めます。

壺井義知(つぼいよしとも)は河内国の農家の出身で、独学で古記録を調査し、故実全般を研究を進めました。彼は享保10(1725)年に将軍徳川吉宗から江戸に招かれるなど、他の故実研究家にも大きな影響を与えました。

壺井に影響をうけた公家の間では、平松時方・野宮定基・滋野井公麗・裏松光世らによってその学問的水準が高められるようになり、また武家でも、幕臣の伊勢貞丈が武家を中心とした制度・礼式・調度・器具・服飾などについて、多くの著作を残しています。他にも、『本朝軍器考』を著わした新井白石・松平定信・塙保己一などが江戸時代の故実研究家として知られています。


明治時代になると、公家や武家といったものが廃止され、有職故実の研究が行われる機会は少なくなりました。しかし現在でも歴史学や法制史といった枠組みの中で、この学問はしばしば言及されています。

この記事のまとめ


今回は、有職故実についてご紹介しました。

有職故実とは、朝廷や公家、あるいは武家が行っていた儀礼や慣習の総称、およびそれを研究する学問のことで、平安時代半ばにその基本が確立しました。その後、鎌倉~江戸時代に至るまで研究が積極的に行われ、現在でも歴史学の一環として取り上げられる事がしばしばあります。

また、有職故実には公家のもの(公家故実)と武家のもの(武家故実)に分かれており、学ぶ際はどちらに当たるのかを意識してみるのもいいと思いますよ。

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