狩野永徳と言えば、日本絵画史上最大会派の1つである狩野派の中で、最高の天才と称される戦国時代の絵師で、当時の戦国大名から大きな支持を集めていた作風で知られています。
そんな彼の作品とその特徴には、どういったものがあるのでしょうか?
また、織田信長との関係や、狩野永徳自身の子孫についてもご紹介します。
狩野永徳の作品の特徴とは?
安土桃山時代に活躍した狩野は随一の天才と称される狩野永徳は、素材から飛び出すような描写と力強い表現をした様式を得意とし、大画様式の確率を行った大絵師です。
大きなスケール観で力強い表現は、戦国時代の諸大名から高い評価や信頼を得ました。
そんな狩野永徳の代表作としては、『唐獅子図』や『檜図』が挙げられ、これらの特徴として豪華で雄大な点が挙げられます。
その一方で、細部を繊細に描いた「細画」も得意としており、その代表作として1574年に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる『洛中洛外図屏風』が有名です。
狩野永徳はもともと細画を得意としていたのですが、彼の作品を求めた戦国大名の要望に答える形で、力強い作品を生み出していったと言われています。
狩野永徳と織田信長の関係は? 信長像はもっと派手だった?
上記で説明した洛中洛外図屏風は信長が上杉謙信に送った作品なのですが、この事例に見られるように、狩野永徳は織田信長から大きな信頼を得ていました。
信長がローマ法王に贈ったとされる安土城を描いた屏風や安土城の障壁画は、彼が狩野永徳に命令して描かせたとされています。
また、永徳は信長の三回忌のために、信長の肖像画を作成した事でも知られています。
こちらの作品を見た事はありませんか?
右の画像は、もともと左右の服の色が異なる作品だったそうですが、秀吉が左の左右対称の作風に書き直させたと言われています。
その背景として「三回忌」という法要という場に合わせたとも、あるいは天下取りを目指す秀吉が信長の影響力を削減するために修正させたなど、様々な原因が挙げられています。
狩野永徳の子孫は今もいるのか?
安土桃山時代を代表する画家である狩野永徳ですが、その子孫はいるのでしょうか。
天正19年(1591年)に48歳で人生に幕を閉じた狩野永徳。
彼には光信と孝信という2人の息子がいました。
長男の狩野光信は、園城寺勧学院客殿障壁画などを残し、父である永徳の作風とは対照的に繊細な作風を特色とした絵師でしたが、当時の一般的な好みに合致しなかったために近世の画論では光信を低く評価されています。
そんな光信が亡くなると、光信の子の狩野貞信がいましたが、まだ12歳と若年であったことから光信の弟である孝信が狩野派を率いました。
更に、貞信が27歳という若さで死去し、子供もいなかったためにその後の狩野派の宗家は孝信の子孫が継いでいく事になります。
次男の狩野孝信には3人の子供がいて、それぞれが鍛冶橋狩野家、木挽町狩野家、中橋狩野家といった流派の祖となり、その宗家は中橋狩野家が務めました。
その一方で、狩野永徳の子孫としてもっとも名高い絵師は、鍜治橋狩野家の祖となった守信です。狩野守信は、後に出家して探幽斎と称したため、「狩野探幽」という名で知られます。狩野探幽は江戸幕府の御用絵師として活躍し、狩野派の画壇における地位を不動のものとしました。
その後の狩野派は、江戸幕府に仕える職業絵師集団として徳川家に仕えました。江戸幕府が滅亡した後も、その影響を受けた者は多数いて、近代日本画の発展に尽力しています。
この記事のまとめ
狩野永徳は、安土桃山という動乱の時代で活躍した絵師であったために、その絵画が現在まで残っている作品が少ない絵師です。
当初は細部を繊細に描く画風を得意としていましたが、織田信長などの当時の有力な戦国大名の信頼に答える形で、自らの作品の特徴を雄大で力強いものへと変えていきました。
永徳の子孫は江戸幕府に職業絵師として仕え、現代に至るまでその影響力を残しています。