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源頼朝が鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に幕府を開き、武士が政権を握った時代を鎌倉時代と呼びます。武士が力を強めていく世の中で、平安時代の優雅な貴族文化と素朴で力強い武士の文化が一緒になり、新しい文化が発展しました。この時代の文化を「鎌倉文化」と言います。


このページでは、鎌倉文化が発展したころに活躍した人物と、その代表作を5つご紹介します。
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鎌倉文化の代表作(1)西行と山家集


西行(さいぎょう)は、平安時代の終わりから鎌倉時代の初めごろに生きたお坊さんです。もとは佐藤義清(のりきよ)という武士でした。23歳の時、出家して「西行」と名乗ります。出家をしてから、西行は日本各地を旅してまわりました。北は岩手県、西は香川県まで訪ねています。

そんな西行の代表作が、『山家集』(さんかしゅう)と呼ばれる和歌を集めた歌集です。この歌集には、西行が旅の中でつくった1500首あまりの和歌が収められています。これらの和歌は「春」「夏」「秋」「冬」「恋」「雑(=その他いろいろ)」の6種類に分類されています。四季の歌には、花や月をうたったものが多く、特に「春」は170首中103首が桜の歌なんですよ。

※参照:夏を詠んだ和歌で有名な作品を5つご紹介。


特に有名なのがこの歌です。

願はくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
(願いがかなうなら桜の花の下で春に死にたいものだ。2月の満月の頃に)


「ん?桜って2月に咲いたっけ?」と思ったかもしれませんが、明治時代までは「旧暦」といって月の満ち欠けを基準にした暦が使われていました。「旧暦の2月の満月の頃」というのは、旧暦の2月15日のこと。現在の暦に直すと3月末のことです。ちょうど桜が咲き出す頃ですね。

旧暦2月15日というのは、じつはお釈迦さまが亡くなった日。お坊さんの西行が「死ぬならこの日がいい」というのもわかります。実際、西行は2月16日に亡くなっています。

鎌倉文化の代表作(2)鴨長明と方丈記


鴨長明(かものちょうめい)は1155年に京都・下鴨神社の神職の家に生まれましたが、50歳で出家してお坊さんになった人物で、1212年に作成した『方丈記』(ほうじょうき)という歌集で知られています。この作品は「日本三大随筆」と呼ばれていて、枕草子や徒然草と同じくらい、評価されている作品です。


この『方丈記』ですが、書き出しの文章がとても有名です。


ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず

(川は絶えることなく流れ続け、
しかも流れる水のひとつひとつは同じではない)


この一文は、鴨長明が世の中のはかなさ、むなしさを記したものとして有名です。

鴨長明が生きた時代は、貴族から武士の世の中へと移りゆく時代。当時は争いが絶えなかった上に、火災や飢饉といったものが人々を苦しめていました。そんな時代の様子も、この『方丈記』には記されています。

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鎌倉文化の代表作(3)吉田兼好と徒然草


徒然草』(つれづれぐさ)も、先ほどの『方丈記』と同じく随筆集です。
方丈記よりも100年ほど後に完成しました。

作者の吉田兼好(よしだけんこう)は京都・吉田神社の神職の家に生まれた鎌倉時代の終わりごろの人物です。実家が神社だったところが鴨長明と似ていますが、長明が鎌倉時代のはじめの頃の人物なのに対し、吉田兼好は鎌倉時代のおわり頃に生きたという違いがあります。


徒然草の書き始めも、とても有名です。


つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、
心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、
あやしうこそ物狂ほしけれ


(することがなくて退屈なまま、一日じゅうすずりに向かって、
心の中にうかんでは消えてゆくとりとめのないことを、
はっきりとした目的もなく書き留めてみると、
不思議なほどおかしな気持ちがすることである)


徒然草には、生と死、辛口の人間批評、有名人の逸話、政治批評などいろんなテーマの話が出てきます。少し口の悪い吉田兼好ですが、現代の人が読んでも納得できることが多いですよ。

鎌倉文化の代表作(4)後鳥羽上皇、藤原定家と新古今和歌集


新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)とは、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令によって編集された和歌集です。後鳥羽上皇のほか、藤原定家(じふじわらのていか)をはじめとする5人の歌人が歌を選びました。完成したのは1205年ごろですが、それまでに10年以上もかかったと言われています。20巻約2000首の歌が収められているほどボリュームが大きいので、当然かもしれませんね。

新古今和歌集の歌の特徴を表す言葉として「幽玄(神秘的で奥が深いこと)」および「有心(しみじみして風雅なこと)」の2つが挙げられます。
また、この歌集には、先ほど紹介した西行や鴨長明、歌を選んだ後鳥羽上皇、藤原定家の歌も入っています。彼らの歌を紹介しておきましょう。


<西行>
心なき身にもあはれは知られけり鴨立つ沢の秋の夕暮れ

(出家して風流など理解できない私でも、
秋の夕暮れ時に鴨が飛び立つ沢を見ていたら、
しみじみとした感情がわいてきたなぁ。)


<鴨長明>
夜もすがら独りみ山のまきの葉にくもるもすめる有明の月

(終夜ひとり眺める深山の真木の葉に翳る月も、
実は美しく輝く月と知られる有明の月よ。)

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<後鳥羽上皇>
見わたせば山本かすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん

(見渡すと山のふもとがかすみ、水無瀬川が流れている。
夕べの情趣は秋に限るなどとどうして思っていたのだろう。
こんなにすばらしい春の夕べがあるのも知らないで。)


<藤原定家>
春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空

(春の夜の、浮橋のようなはかなく短い夢から目が覚めたとき、
山の峰に吹き付けられた横雲が、左右に別れて明け方の空に流れてゆく。)

鎌倉文化の代表作(5)運慶、快慶と東大寺南大門の金剛力士像

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最後に紹介するのは彫刻です。

奈良の大仏でおなじみの東大寺(とうだじ)は、源氏と平氏の争いで焼け落ちてしまいます。鎌倉幕府が開かれて世の中が落ち着いてくると、大仏をはじめ寺の建物や門が次々と建て直されました。その中でも、南大門(なんだいもん)と呼ばれる門の左右には、1203年に完成した約8.5mの巨大な金剛力士像が1体ずつ収められています。

※参照:金剛力士像とは?大きさや特徴、材質について解説!


この金剛力士像は国宝に指定されており、その写実的で力強い姿は、武士の世の中にふさわしい姿といえるでしょう。

この金剛力士像をつくったのが、仏像を専門に手がける仏師の運慶(うんけい)とその弟子の快慶(かいけい)です。この2人は奈良を拠点に活動した仏師(仏像の彫刻を手がける人のこと)と呼ばれる人たちで、仏像制作だけでなく、他にも東大寺の建物の建て直しにもかかわった人物です。

この記事のまとめ


鎌倉文化の人物とその代表作を5つご紹介しました。

鎌倉時代の特徴として、源氏と平氏、そして源頼朝の家来たちが争う時代でもあった事があげられます。こうした争いを見た人々は、この世はかなく思う気持ちを和歌や随筆に込めたのでしょう。その一方で、金剛力士像のような素朴ながら力強い作品は、武士の世の中を象徴しているように感じますね。

また、この時代に武士の間に流行した風習に「流鏑馬」(やぶさめ)と呼ばれる、今でいうスポーツのような儀式があります。これについて以下の記事で解説しているので、興味があればご覧ください。

※参照:流鏑馬の語源やその流派について。やるにはどうすれば?