古来より1月は1年の始まりの月です。しかし、俳句を詠む俳人たちの手にかかると、始まりの月というだけではない、1月の面も見えてきます。
それを証明するかのように、1月だけに絞った季語だけでも、多くの季語が存在しているのです。
そこで今回は、1月をテーマにした有名な俳句を5つ厳選してみました。
目次
日本を代表する文豪・芥川龍之介が詠んだ有名な1月の俳句
「元日や 手を洗ひをる 夕ごころ」
作者は、日本を代表する文豪、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)です。
小説家として名高い芥川龍之介。彼の名を冠した「芥川賞」は、新人小説家にとっても一つの登竜門と称されるほどです。その一方で芥川は「我鬼(がき)」や「澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)」などの号を持ち、「澄江堂句集」という句集をも残した俳人でもありました。
中でも、今回ご紹介した俳句は、澄江堂句集 に収録されたとても有名な作品です。
それでは、早速、俳句内に込められた意味を紐解いてみましょう。
「元日、手を洗っていると、夕暮れなのだとしみじみ感じられた」
一見すると、特別何かを表現しているようには感じられないかもしれません。
しかし、この俳句の中には、芥川龍之介が感じていただろう心情が込められています。
元日といえば、どこか清々しく、新しい何かを感じさせるような雰囲気があります。
けれど、芥川龍之介が取り入れたのは、「夕」という言葉。
そして、重ねるようにして入れられた「心」です。
そこに感じられるのは、言い様のない哀愁さや陰りではないでしょうか。
新しいものを感じさせる「元日」と、哀愁や陰りが見える「夕ごころ」。
芥川龍之介が詠んだこの俳句には、その相反するようなものが同時に含められているのです。
それは、ある種の人生観のような何かを感じさせます。
とても繊細な感性の持ち主だったと称される芥川龍之介。夕暮れの気配の中に、言葉に表すには繊細すぎる何かを察したからこそ生まれた、彼らしい俳句ではないでしょうか。
また、芥川龍之介は、作品に自身の生い立ちや生活を感じさせたくなかったといいます。
そんな芥川龍之介だからこそ、一見すると端的に見える短い言葉を並べながらも、その中に自身の心情や感性を内包させられる俳句を、生涯にわたって愛し続けたのかもしれません。
近代日本の俳人・村上鬼城が詠んだ1月の俳句
「よく光る 高嶺の星や 寒の入り」
村上鬼城(むらかみきじょう)は、日本の俳人です。
しかし、本職としては、司法代書人という職に就いていた人物です。
幼い頃より軍人を志して励んでいましたが、19歳のときに耳の病を患い、その夢を断念。
現代の司法書士である司法代書人になります。
そして、その仕事の傍らでは、正岡子規に教えを請い、俳句を嗜んでいました。そして、正岡子規の死後は、その後継でもあった高浜虚子に俳句をみてもらうことになり、そこでの評判から、俳人としての活躍の場を得ることになりました。
それでは、そんな村上鬼城が詠んだ1月の俳句の意味を、簡単に現代風にしてみます。
「寒の入りの頃、高嶺の上に広がる星は、とても良く光り輝いている」
「寒の入り」とは、暦の上で一番寒さが厳しい時期のことです。
具体的には、暦の「小寒」から「大寒」を真ん中に、「春分」までを指します。
ただ、「寒の入り」は、その年によって変わってきます。因みに、2016年は1月6日から2月4日の間、2017年は1月5日から2月4日の間が「寒の入り」です。
寒の入りという寒さが厳しい時期は、その冷気によって空も澄み渡っている事が多いですよね。
村上鬼城が詠んだこの俳句には、そんな冬の美しい光景が目に浮かぶように描かれています。
近代日本の俳人・高浜虚子が詠んだ1月の俳句
「去年今年 貫く棒の ごときもの」
高浜虚子は、近代日本を代表する俳人・正岡子規の後継とされた人物です。
「虚子」という名も、この正岡子規がつけたといわれています。
また、正岡子規の友人・柳原極堂 が創刊した俳句雑誌「ほとゝぎす」を引き継ぎ、その後、数多くの著名な作家を輩出することとなります。因みに、あの夏目漱石も、この高浜虚子に見出された一人です。
華美な装飾を施した俳句よりも、写実的で客観性を重視した俳句の中に、本髄を写し込むという作風の俳句で有名な高浜虚子。そんな彼が詠んだ1月の俳句の一つを、現代風に訳してみます。
「去年今年とあるけれど、貫く棒のように真っすぐと」
去年や今年という区切りは世の中の流れであって、自分の中にある何か真っすぐなものを持つことが大切なのだと感じさせてくれる名句です。
実は、この俳句が有名となったのには、昭和の文豪、川端康成が関係しています。高浜虚子の詠んだこの俳句を、偶然目にした川端康成はいたく感銘を受け、その俳句を随筆にて取り上げました。その流れを受け、この俳句は、俳句に馴染みのない者にとっても、一躍有名な俳句となったと言われています。
ただ、こちらの俳句は、一時期、邪な意味を持つということでも話題になっています。しかし、俳句というのは短い言葉の中に込められた真意を、どう受け取り手が解釈するでも変わってきます。つまり、邪な考えのある人間が解釈すれば、邪な俳句として、また、清澄な心根の人間が解釈すれば、清澄な俳句となるのです。
ある意味で、それこそ俳句の持つ醍醐味とも言えるかもしれません。
日本を代表する俳人・小林一茶が詠んだ有名な1月の俳句
「めでたさも 中くらいなり おらが春」
小林一茶は、松尾芭蕉や与謝蕪村と並び称される日本を代表する俳人です。一茶の残した俳句は、その人柄か、柔らかみや温かみを感じさせるものが多く、また、微笑ましく愛嬌のある俳句を多く残しています。
それでは、そんな小林一茶の詠んだ俳句の意味を現代語にしてみたいと思います。
「世はめでたいとはいうけれど、たいして良くはない私の新年よ」
正月を迎えると、世の中は、おめでたい雰囲気で溢れます。
しかし、そうは感じられなかった小林一茶の哀愁を感じさせる俳句です。
小林一茶は、その残した作品から想像できないほど、不遇の人生を歩んでいます。幼い頃に母を失い、継母との折り合いが悪く、奉公に出されてしまいます。その後も、点々と住まいを移し、父が病に倒れ看病に行くものの、僅かの後に死去。父の死後は、十年以上も継母たちと遺産相続の争い続けます。
そればかりか、小林一茶は若い奥さんを貰うものの先立たれ、生まれた子供たちも次々と亡くしてしまうのです。その後に再婚するも離婚。更に再婚をするのですが、今度は待望の我が子の誕生を待たずに自身が死去。
そんな不遇の人生を歩んでいた小林一茶だからこそ、新年だとしてもそれが無責任にめでたいとは言えないものだと理解していたのでしょう。
また補足ではありますが、この俳句は、句の中にある「春」が季語ではなく、「おらが春」が季語になっています。そのため、時節は「春」を表すのではなく、「新年」とされています。
日本を代表する俳人・松尾芭蕉が詠んだ1月の俳句
「山里は 万歳おそし 梅の花」
日本を代表する俳人である松尾芭蕉。その名は世界的にも有名です。数多くの俳句や紀行文を残し、それらの作品は、現代の文学や芸術にも大きな影響を与え続けている人物です。
それでは、そんな松尾芭蕉の詠んだ俳句の一つを、簡単に現代風の言葉にしてみます。
「辺鄙な山里などには、万歳がやって来るのも遅く、
梅の花が咲くころになってやって来る」
先ず、この俳句の季語は「梅の花」と「万歳」の2つ。共に新年を表す季語です。「万歳」とは、新年を迎えると、祝いの言葉を述べながらやってくる「門付け(かどづけ)」という大道芸の一種です。因みに、この「万歳(まんざい)」が、今日の「漫才」の元になったと言われています。
大道芸の集団たちは、人の多い都心部へ廻るのがどうしても先になってしまうものです。すると、辺鄙な場所にやって来るのは、それこそ、そろそろ梅の花が咲くころという時分になってしまうのです。その光景は、まるで、二度正月が来たように感じられたでしょう。
少々苦笑しながらも、微笑ましく感じられた松尾芭蕉の心情が伝わってくるような俳句ではないでしょうか。
この記事のまとめ
今回は、有名な俳人や文豪たちが詠んだ、1月にまつわる俳句をご紹介してみました。
その年の初めの時期、新年を表す1月。同じ1月であっても、俳句を詠んだ人物によって、その感じ方や捉え方は様々です。
そして俳句には、過去の情景が短い言葉に込められています。その俳句を読み解くだけでも、その作者の心や歴史背景を感じ取ることができます。
勿論、今回ご紹介したのは、代表的な俳句の中のごく1部です。1月を題材とした俳句に触れることで、また1月という時分が、違って感じられるかもしれませんよ。
※参照:2月を題材にした有名な5つの俳句とその意味をご紹介。