日本人であれば嗜んでおきたい芸道の一つに茶道があります。
学校に茶道部があったり、地域で定期的に茶会が開かれたりと意外と身近にあるというのは茶道の特徴の一つです。
しかし、茶道の中身に関して具体的には知らないという方も多いのではないでしょうか。
現在まで続く茶道の歴史は、安土桃山時代から始まりました。
その後、様々な経緯を経て、表千家・裏千家。武者小路千家の3つの流派が伝統を伝えています。
今回は、茶道の3つの流派の違いについて解説します!
目次
表千家、裏千家、武者小路千家の違いとは?
茶道には主に表千家、裏千家、武者小路千家という3つの流派がありますが、これらは全て、茶道を現代の形にまで高めたと言われる偉大な茶人、千利休を由来とするものです。
※参照:千利休の弟子について。利休七哲のメンバーや山上宗二とは?
そこで、まずはこの3つの流派の違いについて見ていきましょう。
まず最初の表千家ですが、これは千家の本流ということで古くからの作法を忠実に守ってきた流派です。使う道具や仕草は裏千家と異なり質素で華やかさはありませんが、よりわびさびの心を感じることができます。
二つ目の裏千家ですが、「裏」という名称にも関わらず、茶道の流派の中で最大のものです。裏千家の当主は、茶道が廃れかかった明治期や戦後に積極的に茶道の普及に奔走し、学校教育に取り入れられるなどしたため門弟を増やしたのです。
学校にある茶道クラブの多くも、裏千家の作法を採用している所が多いのです。
最後の武者小路千家ですが、特徴として「合理的な動き」がよく挙げられます。この流派の茶室は何回も消失、建て直しを繰り返しているのですが、その度に今までの茶室の無駄を排除してきた事から、必要のない所作を極限にまで省いた経緯があります。
表千家、裏千家、武者小路千家の作法の違いについて
そして、作法においても細かな違いが存在します。
少しだけ見ていきましょう。
・抹茶を泡立てるのが裏千家、他の2つはあまり泡を立てない
・一畳を4歩で歩くのが裏千家、他の2つは一畳を6歩で歩く
・菓子を出す盆に蓋がない(菓子を見せる)の裏千家
・他の2つは盆に蓋がないため、菓子を見せない傾向にある
・裏千家の女性の帛紗(ふくさ、相手をもてなす時に着る着物)の色は朱色
・表千家と武者小路千家の帛紗の色は赤色
・男性の帛紗の色は、いずれも紫
・部屋に左足から入るのが表千家
・右足から入るのが裏千家
・柱側の足から入るのが武者小路千家
・表千家の礼は八の字に手をつき、両手の間を少し開けて、体を30度ほど傾ける
・裏千家は、角度によって区別される礼が三種類ある
・武者小路千家の礼は、左手が前になるように両手を合わせ、背筋を伸ばし頭を下げる
これを見てみると、表千家と武者小路千家は比較的似ている事が分かりますね。この2派が細かい点を重視しているのに対し、裏千家は明治初期に外国人向けに正座する必要のない椅子に座る方式を考案するなど、積極的に新しい流れを取り込んできた事が特徴です。
また、明治時代は西洋文化が流入したこともあり茶道にとっては冬の時代だったのですが、裏千家の当主は拠点を一時期、京都から東京に移し茶道普及のために尽力しました。
結果として戦後には、14代目当主の努力により学校教育に茶道が取り入れられ、結果的に学校の茶道クラブで学ぶ流派も裏千家の方式となったのです。
表千家、裏千家、武者小路千家の由来と歴史を見てみよう!
ここからは、表千家、裏千家、武者小路千家が成立した由来とその歴史についてご紹介します。
千利休の2人の妻と「息子」について
まずは利休の家系図を見てみましょう。利休には2人の「息子」がいました。このうち嫡男の千道安は先妻との子供で、利休死後の1594年に「堺千家」という流派を創設します。しかし、道安には後継ぎがなく、1607年に彼が死去したことで堺千家は断絶してしまいます。
※参照:千利休の2人の妻とその子供について解説!
もう一人の千少庵(しょうあん)は利休の後妻の連れ子で、後に利休の娘と結婚して彼の婿養子となりました。この少庵の子供である千宗旦(そうたん)には四人の息子がおり、長男を除く三人が茶道を志しました。この三人が、表千家、裏千家、武者小路千家のそれぞれの創始者になるのです。
表千家、裏千家、武者小路千家が産まれた経緯とその発展
最初に茶道を継いだ三男の江岑宗左(こうしんそうさ)は、父の茶室である「不審庵(ふしんあん)」を継ぎ、表千家を創設します。そして四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)は、表通りに面する不審庵の裏側に茶室「今日庵(こんにちあん)」を建立し、これが裏千家の由来となるのです。
その後、養子に出されていた次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)も茶道に戻ります。一翁宗守は、表千家の不審庵と裏千家の今日庵から少し離れた「武者小路」という通りに茶室「官休庵(かんきゅうあん)」を建て、これが武者小路千家の由来となりました。
その後、歴代の三千家の投手は各地の大名に仕えながら、町人へ茶道を普及するための努力を行ってきました。実は茶道には、この3つ以外にも流派があるのですが、こうした人々への普及活動が「茶道=三千家」というイメージを作っていったのです。
また、三千家も時代が経過するにつれて、当主の次男や三男が独立する等して数多くの流派が登場しました。これに対して、流派が分裂するのを危惧した表千家の7代目当主である如心斎が、「千家を名乗るのは表千家、裏千家、武者小路千家の嫡男のみとし、他には名乗らせない」と決めたため、現在まで有名な千家は表千家、裏千家、武者小路千家の3つのみなのです。
その一方で、度重なる火災によって茶室が焼け落ちたり、幕末から明治維新の混乱期の中で武者小路千家が一時断絶するといった危機を経験しながら、表千家に対する三井財閥の後押しや裏千家の当主による茶道の普及活動などで、茶道を近代化の波に乗る事に成功していくのです。
この記事のまとめ
表千家、裏千家、武者小路千家の違いや由来、歴史についてご紹介しました。
千利休を始祖とする三千家は、細かい違いを生みながらわびさびの精神を伝えてきました。
これから茶道にチャレンジしたいという人のために、最後にもう一度まとめてみます。
・表千家、裏千家、武者小路千家の始祖はいずれも千利休
・3つの流派の名前の由来は、それぞれの茶室の場所
・最大の流派は裏千家で、積極的に茶道を広め有名になった
・表千家は3つの流派の本流で、細かい作法を重視している
・武者小路千家は合理的な動きが特徴として知られる
いかがでしたか。
茶道には、三千家以外にも多くの流派があります。
また、茶道において最も大切なのは、それぞれのしきたりの違いよりもわびさびの心です。
ぜひ気軽に茶道をはじめてみてはいかがでしょうか?